・↑嘉永六(1853)年ペリーが浦賀に来航し横浜村沖に回遊、ペリーが駒形の応接所で幕府の役人と接見し、開国を要求した。8
・翌嘉永七(1854)年、横浜にて『日米和親条約締結』の図。
右の樹は、玉楠の樹で現在、横浜開港資料館の庭にある。
・木の下の祠の前に立っているのが、「石川町」の名前の由来となった、横浜村里主の石川徳右衛門といわれている。。
・前述の石川徳右衛門の屋敷。
現在も長屋門が残り、屋敷前の坂道は通称「代官坂」と呼ばれる。代官が仕事等の用向きでよく立ち寄ったので、代官屋敷と言われている。
・ペリー提督も条約締結後に石川邸を表敬訪問している。
幕府高官と堂々と渡りあった提督が、寒村の横浜村の里主の家を何故訪問したのか?ペリーと石川家のお孫さん同士でいまでも交流が続いているという。この時代から現在まで元町の住人はこの一軒のみ。
・上方が海、新大川は現在の堀川、元町橋が現在の前田橋で、館門は関所。谷町橋は、現在のフランス橋。手前左手に「異人商館」とある。増徳院のあたりが、現在の元町プラザMM21線「元町・中華街」駅の元町側出口。(下方に伸びる)手前の通りが元町通り。
現在の代官坂
元町に十数年間(1863,8.7〜1878,7.1)定住
仏蘭西人実業家 アルフレッド・ジェラール
(幻冬舎ルネッサンスH2010,11.10刊)全国配本済み
Alfred Gerard.
「日本絵入商人録」(1886年)の →
銅版画より 横濱開港資料館所蔵
(CLして下さい→)
・横浜開港から4年後の文久3(1863)年8月9日、横浜の地を踏み168番館に住み最初は輸入業や肉屋を営んだ。明治初年に山手居留地77・78番地(現在の元町公園)に事務所を移し、我国初の湧水を利用し「水屋」商売(船舶給水業)を始めた。
『』の帯文
よこはまかいかひぶん
仏国シャンパンで有名なシャンパーニュ地方のランス(Reims)生まれ、父はパン屋 (1837-1915)
『元町』界隈地図(明治初年頃) (←CLして下さい)
元町界隈絵図
開港に湧く幕末の横濱村。上州館林の侠客で三下だった佐吉は、一家の代貸しを殺めて横濱村へと出奔。横濱村で次郎左衛門と名を変え、名主石川徳右衛門の食客となる。町整備を推し進める徳右衛門は、その差配頭に度胸と気風の良さを兼ね備えた元侠客、次郎左衛門を推挙する。彼の活躍により、横濱は見事な街へと変貌していく――。
案内板
館林-横濱-神戸を舞台に
近代日本開港の裏面史を感性豊な筆致で描写した時代小説!
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