自分史としての小説

 平成15年1月19日(日)母の77日忌の法要を、群馬県藤岡市の光明寺にて親戚縁者集いて執り行い菩提寺の墓地に納骨しました。 大変苦労した開設当初のHPで、奇しくも翌20日「踏基のダンス句HP」来訪者数500人のキリ番達成しました。

 忌に備え母の遺品を整理すべく押入れの上にある天袋戸棚を覗いた時のことです。
その奥から変色したダンボール箱が出てきたのです。それは、少年〜青年時代のたなか踏基が書き溜めた 創作ノート・手紙類・原稿の束 そして同人誌等でした。
 500人キリ番達成記念特集を考えていた矢先でしたから、この中の古新聞や同人誌の束に思わず手が伸びました。掲載作品は稚拙な小説でしたが、少年時代の昔に一気に引き戻されて読み耽りました。当時はまだ各種文学賞が殆ど無いころで、学生新聞の公募から小説家の道を志す若者達の時代でした。まず小説「雪」、昭和37年 京都大学新聞社が全国大学生を対象にして公募の懸賞小説入選作品、更に昭和38年 長岡の豪雪体験を題材にした「埋葬」でした。

  亡母の部屋の押入れ天袋戸棚に、古い創作ノート類が何故保管されていたのか暫し自問しました。それは今迄途切れていた記憶の糸を手繰り寄せながら、急に結び直す作業に似ていたように思います。男の子がや室井犀星や堀辰雄、横光利一らの詩歌・小説に被れるとは軟弱だと、明治女の気骨をみせた家政学院(現東京家政学院大学)出の母からこっぴどく叱責された記憶がとても懐かしい。

 当時の蔵前(現東京工業大学)出で、家でも頑固で偏屈な父の短慮の失言で官僚と衝突、失職して赤貧に転じた学生時代の孤独感だったのでしょうか?東京一流文系私大(早稲田)の夢が壊れ、文部省の特別奨学金を幸いにも得たものの、国立理系地方大(新潟大工)へ志望変更を余儀なくされた苦い想い出だったのでしょうか? 

 40年前の遺物として心の奥に封印したはずの苦い痕跡が、母の死を契機に姿を現したような禍根めいた狼狽に近い気持ちでした。23年前、昭和54年12月17日 父80歳で、平成14年12月1日に母93歳で逝きました。恥ずかしながら自分史の一頁 若気の至りの稚拙な小説類 時代遅れの執筆感覚で、果して読んで下さる方が何人おられるのか疑問ですが、そうした懐かしい昔の作品を書き直し、加筆修正の上暫時HPに紹介して参りたく存じます。

トップ

次へ

天袋戸棚のダンボール箱

出てきた同人雑誌類